長い上に授業批判しかありません。
今日はシステムデザイン特論4の講義があった。
今日の講師はインダストリアルアートという学科の教員だった。
シラバスによればこの授業は“最先端で活躍する客員教授”が交代で講義する授業であったはずで、首都大の自前の教員が教壇に立つのは授業の主旨に反している。授業として成立させる為に授業回数が必要で間に合わせで話をすることになったのではないかと推測する。
今日のテーマは「感性社会システム」だった。
このテーマについて多くの人が考えていて定義やあり方が固まっていないため、この授業での話は模索している様であると前置きがあった。以前も自治システムについて話した講師が似たような前置きをし、問題定義ばかり延々と続け講義終了時間を超えた時に似ている。今回も事象の紹介に終始し、終了時間を超過した。
今日の講師は感性を自己表現する場という風に定義していると解釈した。なぜなら自己帰着的?など哲学的な単語を説明なしに使用していたので、その後の話から類推するしかなかった。さて、このように小難しく定義された感性であるが、結局、服のセンスであるとか感受性という言葉で置き換えられる意味で使われており、一つの言葉で多くの事象を説明したいがために定義を広げた印象がある。
そして、そういった感性が関わる感性社会システムとは、機能ではなくデザインが重きを置かれるとかファッションなどが多彩になった社会を言うらしい。
感性が重要になっている例として経済産業省が感性を重視していると言っていたが、講師が言う感性と経済産業省が言う感性が同一なのかは全く検証していなかった。議論においては同じ言葉が同じ意味で使われているかを確認するのは重要である。でなければ、不適切な例を参考にしている可能性があるからだ。
そして感性が戦場になっているとも言っていた。
これも単に商品のデザインや服のセンスを競っている様子を大げさに言っているだけだった。例えとして、中学生向けのファッション雑誌とセレブ志向ヤングミセス向けのファッション雑誌が取り上げられていた。
感性の戦いが国家間戦争、紛争を煽動しているなどと主張していた。戦争ではないがサブプライム問題も家が欲しいという感情に働きかけた結果であるとしていた。欲しいという感情に働きかけようとしない商品があるのかと問いたい。
さらに、アートの定義を広げた上で、今までアートと扱われていなかった表現がアートと扱われるようになったと言っていた。マッチポンプを目の前で見たのは初めてだ。
アートの定義を広げるとはアートと判定される対象が増えることである。アートの定義が変わらなければアートと判定される対象は増えない。
今日の講師は全くもって論理に欠けた話をしていた。言葉の定義の乱用により、感性より適切な表現がある場面を感性で説明したり、講師がアートの定義“を”変えたのか、定義“が”変わったのを講師が用いているのか曖昧な議論をしていた。
さらに、時間に対して多すぎる量の資料を用意し、はしょるなどこの講義時間で何を言いたいのかが整理できていないからではないだろうか。加えて、突然英語で資料が書かれたりと学生の理解を妨げる工夫がこなされていた。このような不誠実な態度の教員がいることは悪であると感じる。
講師には大学の教員以外に力を発揮できる職を探すことを勧めたい。
ここまで読んでいる人がいるのか分かりませんが、まだ書きます。この授業の評価は期末レポートで決まるようで、一連の講義から3人を選んで感想、自分の専攻からの提案を求めている。感想は書けます。提案?しかも自分の専攻から?工学を学んでいる学生に社会システム、特にアートに関連付けられたものについて提案とは無理難題もいいところだ。だからと諦めては逆に批判を受けるだろうからなんとか書いてやる。
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